煙草天国

煙草についていろいろな本を読みます

「終戦日記」 大仏次郎  光(ひかり)

 作家による「終戦」あるいは「敗戦」日記は、永井荷風断腸亭日乗」をはじめとして、高見順「敗戦日記」、山田風太郎「戦中派不戦日記」、海野十三「敗戦日記」などなどがあり、徳川夢声夢声戦争日記」、古川ロッパ「悲食記」などもここに加えてよいのだろう。

 この大仏次郎終戦の前年すなわち昭和十九年九月から翌昭和二十年十月までの間に綴られた「終戦日記」は、その巻頭に

 "物価、と言っても主として闇値の変化を出来るだけくわしく書き留めておくこと。"

と記しているところに他の日記とは少しく異なる姿勢がうかがわれる。

現今では「闇値」とか「闇市」といった言葉はそうは簡単に聞かれなくなったし、"出来るだけくわしく書き留める"と言っても、大仏次郎は経済学者、統計学者ではないのだから特段秩序だってそれらが記録されているわけではない。しかし、だからこそあの未曽有の切迫した日常生活に覆いかぶさった「闇値」の仰天の有様が、生身のまま終戦から七十五年を経た今日のテーブルに残酷に盛り付けられるのだ。勿論煙草とて例外ではない。

 

  十九年十月十九日

 "・・・安斎治三郎に会い煙草が配給となったら闇値がつこうと言ったら、いや、もう敷島(1yen)が5yen        

 していると言われて驚く"

十九年十月二十日に米軍がレイテ島に上陸を開始し、同二十四日には新型爆撃機B-29マリアナ諸島より東京を初空襲と戦史にある。

 十九年十月二十八日

 "藤沢でも金鵄(きんし)1個を買うのに朝三時に行列に立つのだという。松田の煙草の吸い方を見ると一

 本を最初から二つに折って二度に分けてパイプで吸う。これは早速真似ることにした"

 

煙草が配給制になったのは十九年十一月一日からで、

 十九年十一月一日

 "本日より煙草配給制、五日分として光と朝日一個ずつ。"

光(ひかり)は一箱十本入り、朝日(あさひ)は二十本入りで計三十本。これが五日分というのだから一日当たり六本という勘定になる。たしかに一本を二つに折って二度に分けて吸うといつた涙ぐましい知恵が煙草にそそがれている。しかしそれでも更に

 十九年十一月二十二日

 "・・・煙草不足、紅茶をパイプで吸うとうまいという話。"

と切羽つまった知恵がにじみ出てきている。そして、この過酷な配給制の裏側で当然のごとくというか「闇値」は

 十九年十二月二十五日

 "光(ひかり)一個が五円から十円する由"

  二十年一月十五日

 "東京では光(ひかり)一個が四円で取引されている。金鵄(きんし)と朝日(あさひ)各一で八円で買った馬鹿

 もいたそうである。 月の配給の権利を二百五十円で売買した例もあるという"

更に

 二十年一月十五日

 "煙草が値上げになるとラジオで言う。十銭の光(ひかり)が六十銭になるそうである。"

光(十本入り)の公定価格が十銭から六十銭に、一気に六倍引き上げられるというのだからこれはすざましい。単純な比較は慎まねばならないが、現今の一箱二十本入りの煙草が概ね五百円見当として、これが六倍のすなわち三千円になるという。これが公定価格の話なのだ。

 二十年二月九日

 "真ちゃんの細君が「光」二個とどけてくれたので助かる。火鉢の吸い殻を集めて喫いつくしたところ

 也"

  二十年三月十四日

 "煙草の配給次回より一日三本と削減を発表。[後記、深川本所辺リ工場焼失セシ為ト謂ウ。]これも自然

 にやめるより他なし。ーなお、昨日の閣議にて麦酒の製造禁止と決定スト。いよいよ禁酒なり。"

二十年三月九日夜の、というより十日払暁の東京大空襲の被害は当時被災家屋二十五万軒、被災民百万人と言われた。あらゆる物資の供給量が壊滅的に失われた為、配給量の激減、公定価格の目を剝く引き上げにつれて、その裏側での「闇値」の天を衝く高騰は有無を言わさぬ怒涛となって

 二十年四月二十一日

 "[光一個(十本入り)が十二円五十銭]

    ビール一本十二円、南京豆一升が三十六円という値段。悪い絹の蝙蝠傘が百三十円だという。

 二十年五月二十二日

 "・・・光一個十五円という値が出て来る。(六十銭のもの)"

 二十年八月五日

 "この夏の鎌倉海岸は海水浴禁止となった。煙草は一日から配給日に三本となる。これではいよいよや

 めるほかない。

 二十年八月十日

 "煙草の配給今月一日より日に三本となりし為闇値急に騰。六十銭の「光」一個が十五円から十八円"

 

繰り返すようだが、公定価格が六十銭に引き上げられた「光」(十本入り)一個がなんと十八円という「闇値」。高見順もその「敗戦日記」の二十年八月二十一日に"原子爆弾の惨状の写真が毎日大きく出してある。"と記したあとに

 "・・・山村君がサケ缶詰を多量に入手したからわけてくれると言ったが、値段を聞くと、一個二十二

 円。公定では八十八銭のものである。配給品の横流しだ。たばこの「ひかり」が一個十八円。定価は六

 十銭だから三十倍の闇値だ。"

と、大仏次郎に比べて少しばかり感情(怒気)をこめて記している。最早「公定価格」なるものが、なんの役にもたたぬ真っ暗闇の迷路にたつ道標でしかない。

 二十年八月十日

 "金鵄十三円、光一個十八円が普通の相場だそうである。豆腐屋の藤崎の話。一日三十円稼ぐのには米

 五合喰って了う。煙草なんてそんな値で買えない。現在の専売局の煙草には大分前から紫陽花の葉が

 入っていると出所確かな話。

 

   二十年九月十日

 "・・・[吉野君の話。藤沢へ米を買いに行ったら二千六百円する。(俵)三千円という話出井よりある]"

煙草の「闇値」が公定価格の三十倍という途方もない事態になっているのだが、ここに「米」の「闇値」が(俵)で三千円という話がでている。「米価の変遷」という統計記録をみてみると、昭和二十年の公定価格は(一俵=六十円)とある。としたら「米」の「闇値」は実に公定価格の五十倍というこれはもう絶望的な倍率である。すなわち、豆腐屋の藤崎が、"一日三十円稼ぐのには米五合を喰ってしまう" これが「闇米」だとしたら、(一俵=四斗=四十升=四百合)で一合は七円五十銭。たしかに五合を喰ったら足がでる。一個十八円もする煙草なんぞ吸えるはずがない。

 

    二十年七月一日

 "・・・里見弴が笑って話す。生活社から無綴りのパンフレット型の本の原稿を頼み来たる。七十八枚    で印税千円で税を五百十円源泉でひかれる。丁度そばに一個十三円買った煙草の光千何百円があり。包           みも小さなものだ。七十八枚書くのにこれだれの煙草を吸って了う。それじゃぁ仕事は引き受けられ   るわけがないじゃないか。"

しかしそれでもまだ里見弴には "笑って話す" 皮肉な余裕がある。七十八枚の印税が千円ということは一  枚が税込み約十三円。当時三十八歳だった高見順は二十年三月八日に "・・・文芸春秋社に行くと・・・「馬上候」の稿料を貰う。百八十円。一枚六円だ。一パイやると百円は消えるこのご時世に、一枚六円ー以前と変わらぬ稿料だ。そこから税金が差し引かれる。" 一枚の稿料が里見弴の半分以下なのだから、当時の高見順にとっての一個の「光」はやはり途方もないものだったのだろう。その高見順が二十年四月二十一日にこう綴っている。

 "・・・煙草が切れてしまった。かかるときの用意にと妻が吸い殻をとっておいた。それを喫ってい           る。それを箱に入れて家を出た。駅で電車を待っていると、妻が自転車でかけつけ、わたしを呼ぶの          だ。何事かと思ったら、配給の煙草を入手できたというのだ。「光」の箱を線路越しに投げてよこす。中身はきんし。一日三本宛の配給だから、一箱と言えば三日分だ。"

嬉しかっただろう。北鎌倉の駅で、妻の手から線路越しに放られた「光」の一箱の、たとえ中身は「きんし」であろうが、その放つ橙色の光彩はどす黒く過酷な戦時下にあっても、そこだけに一瞬の幸せを照らし出してみせる。それは「光」の、いや煙草の魔法なのだ。

 

 大仏次郎も里見弴も高見順もそして豆腐屋の藤崎も、破天荒な「闇値」に翻弄されながら、怒ったり笑ったりあきれかえったりしながらも、この煙草の魔法を愛し続けていたのだ。豆腐屋の藤崎は煙草を止めたんじゃないのかと言う人がいるだろう。否、たとえ一日五合の飯を半分に減らしてでも豆腐屋の藤崎は、ニッコリと目を細めてタバコを吸いつづけていたに違いないとぼくは信じている。