煙草天国

煙草についていろいろな本を読みます

十一夜義三郎   「バット馬鹿の告白」  ゴールデンバット

"ジュウイチヤギサブロウ"と問われて、

"小説家・翻訳家。昭和の初期、川端康成横光利一らと文壇の一角を占める。代表作「唐人お吉」翻訳にはシャーロッテ・ブロンデの「ジェーンエイア」"

と即答できる人はさほど多くはないのではなかろうか。

ましてや十一谷義三郎(明治三十年~昭和十二年)が、自らを「バット馬鹿」と称するほど

の稀代のゴールデンバットの愛煙家であったことなどは、知る人ぞ知る類のことかもし

れない。

 

このエッセイは、中央公論の昭和七年二月号初出とあつて、

 ーーー僕は一日にゴールデンバットを最小限十箱は吸う。十箱と云えば百本だ。一年       

   に三万六千五百本。これから十年生きるとして三十六万五千本!  箱の意匠の金     

   の蝙蝠が七万三千匹!

          僕の一生は花束の代りに金の蝙蝠で蔽われそうだ。

と始まる。

 

しかし、当の本人は一日に最小限十箱と書いているのだが、田中真澄は

 ーーー仏文学者山田珠樹によれば、<五十本の大箱一箱が三日もたないと云うことを                             

    きいていた>そうで、五百本を三日もかけずに消費したわけである。---まさに    

    バット馬鹿、伝説のバットマンと称すにふさわしい。

と「煙草・ユーモラスな残酷」(ユリイカ2003年10月号)の中で、あきれながら称賛して

いる。五百本を三日もかけずになら、一日ざっと百六十本。仮に一日の喫煙時間を十六

時間とすれば、一時間に十本。毎六分ごとに一本消費する勘定になる。

 ーーー僕は、大抵、日に一食だ。二食はバットで補っている。

と本人は云う。まさしく伝説のバットマンだ。

 

もっとも消費量の多寡だけをいえば、"僕の詩はたばこの煙から生まれるんだ"と言った

かの北原白秋には、十二時間で敷島(二十本入り)を十三箱すなわち二百六十本吸ったと

いう証言があるそうで、"煙草のめのめ 空まで煙(けぶ)せ どうせ この世は癪のた

ね"かどうかは別としても、恐らくこの紫烟草舎の主が第一等に違いない。

 

しかし、十一谷義三郎が"伝説のバットマン"と称される所以は、それが単に大量に消費

するからというだけでなく、ある時新聞記者に"そんなに旨いものかなぁ"と問われて

 ーーーいや、旨くもなんともない。太陽のごとく、空気のごとく、無くてはいられな

    いだけだ。あの箱をあけて、あの銀と半透明の包み紙をわけて、蝋の凝った細

    い吸い口と莨をとり出して、唇辺にふくむ。その運動と感触と味覚の全部が、

    僕にはもうこの五、六年来、ひとつの秩序だった生理現象となってしまってる

    のだ。

とにもかくにも、ゴールデンバットがなくてはならないのである。

 

更に、親友であった豊島与四郎の「十一夜義三郎を語る」には

 ーーー遂には、バットの模様の二匹の蝙蝠をつけた原稿用紙を、わざわざ拵えさした 

    ほどだった。

とあって、ただただ火を点けて煙を吹き上げている輩とは別格の、ゴールデンバット

の崇高、濃密、深淵を十一夜義三郎に見ることが出来るというものである。

 

作家と煙草となると、

    開高健ラッキーストライク三島由紀夫筒井康隆は両切りピース。

    横光利一池波正太郎・阿部公房はチェリー。司馬遼太郎はハイライト。

    遠藤周作ゴロワーズ夏目漱石は家では朝日、外では敷島。

などといった通り相場があるのだが、それではゴールデンバットはとなると、

    佐藤春夫芥川龍之介太宰治中原中也

ときて、伝説のバットマン十一夜義三郎は出てこない。

 

ーーーみだりに胸襟を開かず、狷介固陋、体面を保ち、終始矜持をもちつづけた生活

   を、十一夜義三郎君は守り通したのだった。(豊島代志雄)

孤高の「バット馬鹿」。成程そうだったのか。

 

 

 

 

 

 

 

「終戦日記」 大仏次郎  光(ひかり)

 作家による「終戦」あるいは「敗戦」日記は、永井荷風断腸亭日乗」をはじめとして、高見順「敗戦日記」、山田風太郎「戦中派不戦日記」、海野十三「敗戦日記」などなどがあり、徳川夢声夢声戦争日記」、古川ロッパ「悲食記」などもここに加えてよいのだろう。

 この大仏次郎終戦の前年すなわち昭和十九年九月から翌昭和二十年十月までの間に綴られた「終戦日記」は、その巻頭に

 "物価、と言っても主として闇値の変化を出来るだけくわしく書き留めておくこと。"

と記しているところに他の日記とは少しく異なる姿勢がうかがわれる。

現今では「闇値」とか「闇市」といった言葉はそうは簡単に聞かれなくなったし、"出来るだけくわしく書き留める"と言っても、大仏次郎は経済学者、統計学者ではないのだから特段秩序だってそれらが記録されているわけではない。しかし、だからこそあの未曽有の切迫した日常生活に覆いかぶさった「闇値」の仰天の有様が、生身のまま終戦から七十五年を経た今日のテーブルに残酷に盛り付けられるのだ。勿論煙草とて例外ではない。

 

  十九年十月十九日

 "・・・安斎治三郎に会い煙草が配給となったら闇値がつこうと言ったら、いや、もう敷島(1yen)が5yen        

 していると言われて驚く"

十九年十月二十日に米軍がレイテ島に上陸を開始し、同二十四日には新型爆撃機B-29マリアナ諸島より東京を初空襲と戦史にある。

 十九年十月二十八日

 "藤沢でも金鵄(きんし)1個を買うのに朝三時に行列に立つのだという。松田の煙草の吸い方を見ると一

 本を最初から二つに折って二度に分けてパイプで吸う。これは早速真似ることにした"

 

煙草が配給制になったのは十九年十一月一日からで、

 十九年十一月一日

 "本日より煙草配給制、五日分として光と朝日一個ずつ。"

光(ひかり)は一箱十本入り、朝日(あさひ)は二十本入りで計三十本。これが五日分というのだから一日当たり六本という勘定になる。たしかに一本を二つに折って二度に分けて吸うといつた涙ぐましい知恵が煙草にそそがれている。しかしそれでも更に

 十九年十一月二十二日

 "・・・煙草不足、紅茶をパイプで吸うとうまいという話。"

と切羽つまった知恵がにじみ出てきている。そして、この過酷な配給制の裏側で当然のごとくというか「闇値」は

 十九年十二月二十五日

 "光(ひかり)一個が五円から十円する由"

  二十年一月十五日

 "東京では光(ひかり)一個が四円で取引されている。金鵄(きんし)と朝日(あさひ)各一で八円で買った馬鹿

 もいたそうである。 月の配給の権利を二百五十円で売買した例もあるという"

更に

 二十年一月十五日

 "煙草が値上げになるとラジオで言う。十銭の光(ひかり)が六十銭になるそうである。"

光(十本入り)の公定価格が十銭から六十銭に、一気に六倍引き上げられるというのだからこれはすざましい。単純な比較は慎まねばならないが、現今の一箱二十本入りの煙草が概ね五百円見当として、これが六倍のすなわち三千円になるという。これが公定価格の話なのだ。

 二十年二月九日

 "真ちゃんの細君が「光」二個とどけてくれたので助かる。火鉢の吸い殻を集めて喫いつくしたところ

 也"

  二十年三月十四日

 "煙草の配給次回より一日三本と削減を発表。[後記、深川本所辺リ工場焼失セシ為ト謂ウ。]これも自然

 にやめるより他なし。ーなお、昨日の閣議にて麦酒の製造禁止と決定スト。いよいよ禁酒なり。"

二十年三月九日夜の、というより十日払暁の東京大空襲の被害は当時被災家屋二十五万軒、被災民百万人と言われた。あらゆる物資の供給量が壊滅的に失われた為、配給量の激減、公定価格の目を剝く引き上げにつれて、その裏側での「闇値」の天を衝く高騰は有無を言わさぬ怒涛となって

 二十年四月二十一日

 "[光一個(十本入り)が十二円五十銭]

    ビール一本十二円、南京豆一升が三十六円という値段。悪い絹の蝙蝠傘が百三十円だという。

 二十年五月二十二日

 "・・・光一個十五円という値が出て来る。(六十銭のもの)"

 二十年八月五日

 "この夏の鎌倉海岸は海水浴禁止となった。煙草は一日から配給日に三本となる。これではいよいよや

 めるほかない。

 二十年八月十日

 "煙草の配給今月一日より日に三本となりし為闇値急に騰。六十銭の「光」一個が十五円から十八円"

 

繰り返すようだが、公定価格が六十銭に引き上げられた「光」(十本入り)一個がなんと十八円という「闇値」。高見順もその「敗戦日記」の二十年八月二十一日に"原子爆弾の惨状の写真が毎日大きく出してある。"と記したあとに

 "・・・山村君がサケ缶詰を多量に入手したからわけてくれると言ったが、値段を聞くと、一個二十二

 円。公定では八十八銭のものである。配給品の横流しだ。たばこの「ひかり」が一個十八円。定価は六

 十銭だから三十倍の闇値だ。"

と、大仏次郎に比べて少しばかり感情(怒気)をこめて記している。最早「公定価格」なるものが、なんの役にもたたぬ真っ暗闇の迷路にたつ道標でしかない。

 二十年八月十日

 "金鵄十三円、光一個十八円が普通の相場だそうである。豆腐屋の藤崎の話。一日三十円稼ぐのには米

 五合喰って了う。煙草なんてそんな値で買えない。現在の専売局の煙草には大分前から紫陽花の葉が

 入っていると出所確かな話。

 

   二十年九月十日

 "・・・[吉野君の話。藤沢へ米を買いに行ったら二千六百円する。(俵)三千円という話出井よりある]"

煙草の「闇値」が公定価格の三十倍という途方もない事態になっているのだが、ここに「米」の「闇値」が(俵)で三千円という話がでている。「米価の変遷」という統計記録をみてみると、昭和二十年の公定価格は(一俵=六十円)とある。としたら「米」の「闇値」は実に公定価格の五十倍というこれはもう絶望的な倍率である。すなわち、豆腐屋の藤崎が、"一日三十円稼ぐのには米五合を喰ってしまう" これが「闇米」だとしたら、(一俵=四斗=四十升=四百合)で一合は七円五十銭。たしかに五合を喰ったら足がでる。一個十八円もする煙草なんぞ吸えるはずがない。

 

    二十年七月一日

 "・・・里見弴が笑って話す。生活社から無綴りのパンフレット型の本の原稿を頼み来たる。七十八枚    で印税千円で税を五百十円源泉でひかれる。丁度そばに一個十三円買った煙草の光千何百円があり。包           みも小さなものだ。七十八枚書くのにこれだれの煙草を吸って了う。それじゃぁ仕事は引き受けられ   るわけがないじゃないか。"

しかしそれでもまだ里見弴には "笑って話す" 皮肉な余裕がある。七十八枚の印税が千円ということは一  枚が税込み約十三円。当時三十八歳だった高見順は二十年三月八日に "・・・文芸春秋社に行くと・・・「馬上候」の稿料を貰う。百八十円。一枚六円だ。一パイやると百円は消えるこのご時世に、一枚六円ー以前と変わらぬ稿料だ。そこから税金が差し引かれる。" 一枚の稿料が里見弴の半分以下なのだから、当時の高見順にとっての一個の「光」はやはり途方もないものだったのだろう。その高見順が二十年四月二十一日にこう綴っている。

 "・・・煙草が切れてしまった。かかるときの用意にと妻が吸い殻をとっておいた。それを喫ってい           る。それを箱に入れて家を出た。駅で電車を待っていると、妻が自転車でかけつけ、わたしを呼ぶの          だ。何事かと思ったら、配給の煙草を入手できたというのだ。「光」の箱を線路越しに投げてよこす。中身はきんし。一日三本宛の配給だから、一箱と言えば三日分だ。"

嬉しかっただろう。北鎌倉の駅で、妻の手から線路越しに放られた「光」の一箱の、たとえ中身は「きんし」であろうが、その放つ橙色の光彩はどす黒く過酷な戦時下にあっても、そこだけに一瞬の幸せを照らし出してみせる。それは「光」の、いや煙草の魔法なのだ。

 

 大仏次郎も里見弴も高見順もそして豆腐屋の藤崎も、破天荒な「闇値」に翻弄されながら、怒ったり笑ったりあきれかえったりしながらも、この煙草の魔法を愛し続けていたのだ。豆腐屋の藤崎は煙草を止めたんじゃないのかと言う人がいるだろう。否、たとえ一日五合の飯を半分に減らしてでも豆腐屋の藤崎は、ニッコリと目を細めてタバコを吸いつづけていたに違いないとぼくは信じている。

 

 

 

 

 

 

 

『たばこ』  佐藤愛子  手巻きタバコ

 佐藤愛子はたばこを吸わない。

もし喫煙に家系というものがあるとすれば、父の佐藤六治(筆名 紅緑)は「敷島」を一日に百本はふかしていたというし、母親のシナ(芸名 三笠万里子)は一日中茶の間の長火鉢の前に座りっぱなしで吸っていた。異母兄のサトウハチローは「フジ」を日に百二十本が定量だったし、進取の精神に富んでいた姉の早苗も悪戯半分にたばこを吸っていたというのだから、当然佐藤愛子の血の中にもたばこの正統が立派にながれているはずである。

 その佐藤愛子がたばこを吸わないのは、健康を損なう惧れがあるとか、他人さまに厄介な煙がご迷惑をおかけするとかといつた "いちいちうるせえ" 今時のお行儀のよい理由なぞではない。

「私がたばこを吸わないわけはいろいろあるが、不精であるということもそのひとつかもしれない。」と書いて、しかし

 「ものを書く仕事をするようになってから、タバコが吸えればよいのにと頻りに思う」

「もし私がタバコを吸える人間であったなら、もう少しゆとりのある仕事ぶりが出来るのにと私は思う。」

と、たばこへの少しばかりのオマージュをもらしてさえいるのである。

 

 「手巻きタバコ」は近頃では、アール・ワイ・オー(Roll Your Own)なんて洒落た呼び名でその愛好家は多く、れっきとしたたばこ専門店には数多くのシャグ(手巻き専用の刻みタバコ)がパステルカラーのパウチに包まれてお花畑のように並んでいる。勿論専属のペーパーもフィルターもあるし、それらをセットして誰でも綺麗に手巻きすることが出来る(映画でランドルフ・スコットが馬上で片手で見事に手巻きするシーンは忘れられない)ローラーも各種用意されている。ここにはたばこが、ただ吸えばそれでおしまいという領域から "お洒落" とか "格好良い" とかといった、近頃のファッションの領域への風向きが、軽やかに甘ったるく感じられる。

 

 明治生まれの埴谷雄幸(1909〜1997)は中学二年の頃からたばこを吸いはじめたそうだが

 「四年になった頃・・・ダルハムの粉タバコを持ってきて、褐色のホィート・ペーパーに自分で巻き込んで吸うものが現れた。これはひどく洒落たことにおもわれた。」

 ここでいう「ダルハム」とは「ブル ダーラム( Bull Durham)」のことで

 「私はいまでも思い出すが、木綿の袋につめられて、その木綿の上にダルハムの商標がプリントしてあるさまは、貨物船に乗せられて遠くへ積み出される小麦粉の袋を連想させた。」

 「明治維新からすでに五十年以上たっていたのだが、私が成長したその頃、つまり袂のなかからダルハムを出したり、巧く巻けないと、エアシップの箱をもう一つ出して・・・」

 こうしてみると欧米文化と共に流入してきた「手巻きタバコ」は、明治維新から五十年以上たった大正の頃でも、平成最後の今年でも "お洒落な" という言葉で括られる、まことに愛すべき存在であるということができようか。

 

 しかし、昭和に入ってのわが国での「手巻きタバコ」はそうは軽々しくない。

 「そのうちに戦争がはじまつた。タバコは自由に買えなくなり、配給制度になった。やがて巻きタバコの配給はなくなり、タバコの葉とそれを巻く紙が配給されるようになった。」

 たばこが配給制になったのは昭和十九年十一月一日からで、当初は五日分として「光(十本入り)」ひと箱に「朝日(二十本入り)」ひと箱の計三十本、一日当たり六本の割り当てで皆悲鳴をあげたが、それも翌二十年八月一日からは一日当たり三本になったと残酷な記録がある。それは戦時下での、極度に逼迫した原料、資材の確保、混乱を極めた流通、製造設備の焼失、人手不足などなどから「紙巻きたばこ」の満足な供給は到底不可能になったためであった。かかる事態にたいして、専売局が比較的被害の少なかった裁刻作業の余力を利用して"きざみ" を増産し、これを「のぞみ」として「紙」添付して売り出したのが昭和十九年九月。まさしく窮余の策であり、これが "お洒落" もへったくれもない我が国の「手巻きタバコ」の誕生であった。しかもその当初は、巻き上げる道具もなく手近にあった箸や筆を使うといつた悪戦苦闘が強いられた。

 「暗幕を垂らした暗い部屋で白髪が急に増えた母が黙々とタバコを巻いている。」

 戦時下空襲に備え戸外に灯りが洩れぬよう部屋の電灯にみな黒い暗幕を垂らしていた。昭和十九年十月二十四日には敵B-29による帝都初空襲があった。

 「アルミニウムのタバコを巻くものが売り出されたが母はそれを買って来て丹念に巻く、巻くしりから父が吸う。母は怒っていった。「そんなに、自分ばかり吸わないで下さい !」父と母はタバコのことで喧嘩ばかりしていた。父は母の分を吸ってしまうのだ。」

 それはそうだろう。なにしろ佐藤紅緑は日に百本吸うのだから凡そ十分間に一本は吸わなくてはならない。三笠万里子が黙々と巻き上げる一本を今や遅しと・・・喧嘩になっても仕方がない。

 

 戦後になって、色川武大(1929〜1989)は

 「・・・母親と私とで、道ばたに三尺の台をしつらえて、野菜だの果物だのを田舎へ行って背負ってきては売る。それでも毎日買い出しに出かけるのは辛いので・・・煙草の手巻き器具を並べて売るようになった。」と。

 かの吉田健一(1912〜1977)は、" かつぎや" からより労力とコストのかからぬ " もく拾い"  に転じて、拾ってきた吸い殻を揉み解し、闇市で売っていた手巻き器具でそれらをまき直し、大手町のガード下で十本二十円で売れていたと書いていて、巻く紙はやはり三省堂の英和辞典のものが上等で、白水社の仏和辞典のそれはちょっとおちたと、いかにも学者らしい評価も書き添えている。そして、" もく拾い" をやめて更に労力とコストのかからぬ" 乞食" に転じたのが昭和二十四年三月とのことで、なんの符号か氏が「手巻きたばこ」の製造を止めたこの年の九月には、専売局も手巻きタバコ「のぞみ」の製造を中止している。そして更に何の意味もないけれど、氏が拾ってきた吸い殻を慣れぬ手つきでせっせと「手巻きタバコ」に変身させていただろう昭和二十三年は、実に明治維新から八十年目にあたる年なのである。

 

 佐藤愛子は今年(平成三十年) 九十二歳。

 手巻きタバコをめぐって父と母が揉めているのを見ていたのは終戦前後のことだろう。不精を自認しているぐらいだから、母親を手伝って" のぞみ" を小器用に巻き上げるようなことはしなかったに違いない。しかし

 「たばこというものはないとなるとますます吸いたくなるものらしい」

といった観察は怠らないし、

 「酒は一定量飲むと眠るか、騒ぐか、とにかく最後は酔いつぶれて静かになる。甘党もおはぎを二十も食べさせれば、ひっくり返って静かになる。しかしタバコのみだけはそうは行かぬところが困るのである。」

といった愚痴も書き漏らしてはいない。

 

 テレビやスマホに依存しなければ何も語れなくなったかのような近頃の世相を、" いちいちうるせえ" とばかりに切り刻んで巻紙にくるみ、まるで手巻きタバコのようにホイホイと並べてみせる。とても尋常な無精者とは思えない。

 例によって何の意味もないけれど、今年は明治維新から百五十年目にあたる。

 

 

   『タバコ』        佐藤愛子   「けむりの居場所」

   『煙草のこと』      埴谷雄幸   「たばこの本棚」

   『私だけの煙草の歴史』  色川武大   「けむりの居場所」

   『乞食時代』       吉田健一   「もうすぐ絶滅するという煙草につ

                        いて」

                                  所収

 

 

 

 

 

              

「富岳百景」 太宰治 ゴールデンバット

 東京渋谷の公園通りにあった「塩とたばこの博物館」(2015年に墨田区に移転)で、数々の貴重な展示品の中に愛煙家として、林羅山柳田国男らと並んで太宰治

 「・・・いわゆるバット党(ゴールデンバットの愛好者)で執筆の際には煙草が欠かせ                  なかったという。このことは私小説「富岳百景」に記されている」

とパネル紹介されていた。

 そこでなんの脈絡もなく思い出した。有名な俳人にして随筆家、実家は料亭"なだ万"の楠本健吉が、志賀直哉が「暗夜行路」の中で山独活(やまうど)の奈良漬のことを書いていると聞いて、岩波文庫を求めて通読したがこれがなかなか出てこない。ようやく出てきたのが終わりにちかい425ページでしかもたったの2行

 「寺の上(かみ)さんは好人物で・・・山独活の奈良漬を作ることが得意で、それだけ はうまかった。」

文豪志賀直哉が山独活の奈良漬についてアレコレこれを活写しているものと、興味津々ページを繰っていったに違いない楠本健吉の落胆は、「それでおしまい。私はがっかりした。」さぞかし大なるものであっただろう(「たべもの歳時記」楠本健吉 昭和45年)。 しかし、人づてに耳にした話をそのまま鵜呑みにしないで、自ら通読、確認しょうとするその姿勢は強く記憶に残った。

 

 本棚から筑摩書房刊文学全集「太宰治」の塵を払って「富岳百景」を読み進める。

昭和13年(1938年)9月、太宰治29歳。

昭和13年の初秋、思いをあらためる覚悟で、私はかばんひとつ下げて旅に出た。」

甲州。 御坂峠の頂上の天下茶屋に、初夏の頃から籠って仕事をしていた井伏鱒二(当時40歳)の許しを得て、茶屋の2階の角の部屋に逗留することとした。井伏鱒二はこの年に第6回直木賞を"ジョン万次郎漂流記"で受賞しており、すでに文壇の一角を占める存在であったが、いろいろな経緯で太宰治の身元引受人というちょっと奇妙な関係にもあった。

ところで煙草のことである。「富岳百景」で先ず煙草が登場するのは、

 「私がその峠の茶屋へ来て2、3日経って、井伏氏の仕事も一段落ついて或る晴れた午  後、私たちは三つ峠へのぼった。」

1時間ほど登って峠のパノラマ台に立ったのだが、急に天候が変わり濃い霧がでて一向に眺望がきかなくなってしまった。きちんと登山服を着た井伏鱒二は、いかにもつまらなそうに岩に腰をおろし

 「ゆっくり煙草を吸いながら、放屁なされた」

この放屁の一件は、その後二人の間でその真偽をめぐって微苦笑もののやりとりがあるのだが、それはともかく確かに煙草は登場したものの吸っているのは井伏鱒二であって太宰治ではない。

読み進めていく。「富岳百景」の中では "富士には月見草がよく似合う" というフレーズがつとに有名だが、そのすこし後のところに

 「10月なかば過ぎても、私の仕事は遅々として進まぬ。人が恋しい。夕焼け赤き雁(がん)の腹雲(はらぐも)、二階の廊下で、ひとり煙草を吸いながら、わざと富士には目もくれず・・・」

太宰治と煙草がようようにしてつながる。しかしこんな程度では志賀直哉の山独活の奈良漬みたいな肩透かしじゃないかと、さらに読みすすめていく。

10月のおわりの頃、井伏鱒二の仲介で進んでいた甲府の娘さんとの縁談について、国許からせめて100円ぐらいはとあてにしていた助勢が一切無いこととなって、太宰治は途方にくれる。ともかく先方を訪ねて事の次第を洗いざらい話してみようと単騎、勇を鼓して甲府の娘さんのお家へ行く。幸い縁談は恙なく進むこととなったのだが、

 「甲府に行って来て、二、三日、流石に(さすが)に私はぼんやりして、仕事をする気も起らず、机のまえに坐って、とりとめのない落書きをしながら、バットを七箱も八箱も吸い、また寝転んで、金剛石も磨かずば、という唱歌を、繰り返し繰り返し歌ってみたりしているばかりで・・・」

と、ここにしてやっと「塩とたばこの博物館」のパネルにあった、ゴールデンバット太宰治のヘビースモーカーぶりが無事逢着する。なるほど当時のバットは一箱十本入りだったとはいえ、七箱、八箱とは流石流石。

 

別段、揚げ足をとるつもりはないけれど、この「富岳百景」の中での太宰治はパネルの紹介文にあるように執筆中にバットを吸い散らかしているわけではない。思うに、甲府の娘さんとの縁談話に単騎挺身、一応の首尾をえた安堵というか、ヤレヤレというか、サテサテというか、太宰治というよりも29歳の青年 津島修治の素顔で座敷に寝転んでバットを切れ目なく吸い続け、"金剛石も磨かずば 玉の光は 添わざらん"と繰り返し繰り返し口ずさんでいたのだろう。

この唱歌はこの後に

   "人も学びて後(のち)にこそ まことの徳は現(あらわ)るれ 時計の針の絶え間なくめくるがごとく時の間の 光陰惜(ひかげおし)みて励(はげ)みなば いかなる業(わざ)か ならざらん"

と続くので、「思いをあらためる覚悟で」かばんひとつを下げて、荒んだ荻窪の下宿から甲州に来た、そこには太宰治ではなく、どうしても29歳の津島修治の素顔が思われてしまう。

 

 しかし煙草という代物はやはり無くてはならない。ご存知のように、煙草の大きな効能のひとつに、良いことであれ、悪いことであれ、時に応じてそれらを婉曲にふわりと包み隠し人を喜ばすという、手品師のハンカチのひと振りに似たマジックがある。

後年、青森県蟹田の記念碑に佐藤春夫が  "かれは 人を喜ばせるのが 何よりも 好きであった! "と碑文にこめたのは、無防備に言えば太宰治の煙草とか手品師に通底するマジックの高みであったのではないだろうか.。

井伏鱒二もその著書「太宰治(昭和64年)」の中で、例の三つ峠での放屁の一件について

  「私は太宰君と一緒に三つ峠に登ったが放屁をした覚えはない。・・・抗議を申し込むと、「いや放屁なさいました」と噴き出して・・・故意に敬語をつかうことによって真実味を持たそうとした。ここに彼の描写力の一端が窺われ、人を退屈させないように気をつかふ彼の社交性も出てゐるが、私は・・・このトリックには掛らない。」

太宰治のトリックを端から見破っているのが面白い。ここでまた無防備に言えば太宰治がどこかで "井伏鱒二は悪い人です" と発言したという大騒ぎは、手品師が肝心のトリックをすべて見破られている客を前にしての持っていき場のない照れ隠しだったのではないだろうか。井伏鱒二は私生活の中では "太宰くん" とは呼ばず、決まって "津島くん"と中学生のような甲高い声で呼んだ(「回想の太宰治」津島美和子 昭和53年)というではないか。

 

 

 煙草のマジックは、井伏鱒二三つ峠のパノラマ台で突然の濃い霧にまかれながら岩に坐って、ゆっくりと煙草を吸いながら「放屁をなされた」から良いので、これが煙草を吸わないでただ岩に坐って轟然と「放屁なされた」のでは取り囲んでいた霧ですら吃驚したに違いない。座敷に寝転んで "金剛石も磨かずば" と歌いながら、際限もなくせんべいを齧っていたというのでは、太宰治の「思いをあらためる覚悟」も甲府の娘さんとのことも余りにもあけすけで、やはりバットの絶え間ない紫煙にくるまれてこそ、太宰治のいや津島修治のひとときの平穏が、雲間の富士のように読者に見えてくるのではないだろうか。