煙草天国

煙草についていろいろな本を読みます

「富岳百景」 太宰治 ゴールデンバット

 東京渋谷の公園通りにあった「塩とたばこの博物館」(2015年に墨田区に移転)で、数々の貴重な展示品の中に愛煙家として、林羅山柳田国男らと並んで太宰治

 「・・・いわゆるバット党(ゴールデンバットの愛好者)で執筆の際には煙草が欠かせ                  なかったという。このことは私小説「富岳百景」に記されている」

とパネル紹介されていた。

 そこでなんの脈絡もなく思い出した。有名な俳人にして随筆家、実家は料亭"なだ万"の楠本健吉が、志賀直哉が「暗夜行路」の中で山独活(やまうど)の奈良漬のことを書いていると聞いて、岩波文庫を求めて通読したがこれがなかなか出てこない。ようやく出てきたのが終わりにちかい425ページでしかもたったの2行

 「寺の上(かみ)さんは好人物で・・・山独活の奈良漬を作ることが得意で、それだけ はうまかった。」

文豪志賀直哉が山独活の奈良漬についてアレコレこれを活写しているものと、興味津々ページを繰っていったに違いない楠本健吉の落胆は、「それでおしまい。私はがっかりした。」さぞかし大なるものであっただろう(「たべもの歳時記」楠本健吉 昭和45年)。 しかし、人づてに耳にした話をそのまま鵜呑みにしないで、自ら通読、確認しょうとするその姿勢は強く記憶に残った。

 

 本棚から筑摩書房刊文学全集「太宰治」の塵を払って「富岳百景」を読み進める。

昭和13年(1938年)9月、太宰治29歳。

昭和13年の初秋、思いをあらためる覚悟で、私はかばんひとつ下げて旅に出た。」

甲州。 御坂峠の頂上の天下茶屋に、初夏の頃から籠って仕事をしていた井伏鱒二(当時40歳)の許しを得て、茶屋の2階の角の部屋に逗留することとした。井伏鱒二はこの年に第6回直木賞を"ジョン万次郎漂流記"で受賞しており、すでに文壇の一角を占める存在であったが、いろいろな経緯で太宰治の身元引受人というちょっと奇妙な関係にもあった。

ところで煙草のことである。「富岳百景」で先ず煙草が登場するのは、

 「私がその峠の茶屋へ来て2、3日経って、井伏氏の仕事も一段落ついて或る晴れた午  後、私たちは三つ峠へのぼった。」

1時間ほど登って峠のパノラマ台に立ったのだが、急に天候が変わり濃い霧がでて一向に眺望がきかなくなってしまった。きちんと登山服を着た井伏鱒二は、いかにもつまらなそうに岩に腰をおろし

 「ゆっくり煙草を吸いながら、放屁なされた」

この放屁の一件は、その後二人の間でその真偽をめぐって微苦笑もののやりとりがあるのだが、それはともかく確かに煙草は登場したものの吸っているのは井伏鱒二であって太宰治ではない。

読み進めていく。「富岳百景」の中では "富士には月見草がよく似合う" というフレーズがつとに有名だが、そのすこし後のところに

 「10月なかば過ぎても、私の仕事は遅々として進まぬ。人が恋しい。夕焼け赤き雁(がん)の腹雲(はらぐも)、二階の廊下で、ひとり煙草を吸いながら、わざと富士には目もくれず・・・」

太宰治と煙草がようようにしてつながる。しかしこんな程度では志賀直哉の山独活の奈良漬みたいな肩透かしじゃないかと、さらに読みすすめていく。

10月のおわりの頃、井伏鱒二の仲介で進んでいた甲府の娘さんとの縁談について、国許からせめて100円ぐらいはとあてにしていた助勢が一切無いこととなって、太宰治は途方にくれる。ともかく先方を訪ねて事の次第を洗いざらい話してみようと単騎、勇を鼓して甲府の娘さんのお家へ行く。幸い縁談は恙なく進むこととなったのだが、

 「甲府に行って来て、二、三日、流石に(さすが)に私はぼんやりして、仕事をする気も起らず、机のまえに坐って、とりとめのない落書きをしながら、バットを七箱も八箱も吸い、また寝転んで、金剛石も磨かずば、という唱歌を、繰り返し繰り返し歌ってみたりしているばかりで・・・」

と、ここにしてやっと「塩とたばこの博物館」のパネルにあった、ゴールデンバット太宰治のヘビースモーカーぶりが無事逢着する。なるほど当時のバットは一箱十本入りだったとはいえ、七箱、八箱とは流石流石。

 

別段、揚げ足をとるつもりはないけれど、この「富岳百景」の中での太宰治はパネルの紹介文にあるように執筆中にバットを吸い散らかしているわけではない。思うに、甲府の娘さんとの縁談話に単騎挺身、一応の首尾をえた安堵というか、ヤレヤレというか、サテサテというか、太宰治というよりも29歳の青年 津島修治の素顔で座敷に寝転んでバットを切れ目なく吸い続け、"金剛石も磨かずば 玉の光は 添わざらん"と繰り返し繰り返し口ずさんでいたのだろう。

この唱歌はこの後に

   "人も学びて後(のち)にこそ まことの徳は現(あらわ)るれ 時計の針の絶え間なくめくるがごとく時の間の 光陰惜(ひかげおし)みて励(はげ)みなば いかなる業(わざ)か ならざらん"

と続くので、「思いをあらためる覚悟で」かばんひとつを下げて、荒んだ荻窪の下宿から甲州に来た、そこには太宰治ではなく、どうしても29歳の津島修治の素顔が思われてしまう。

 

 しかし煙草という代物はやはり無くてはならない。ご存知のように、煙草の大きな効能のひとつに、良いことであれ、悪いことであれ、時に応じてそれらを婉曲にふわりと包み隠し人を喜ばすという、手品師のハンカチのひと振りに似たマジックがある。

後年、青森県蟹田の記念碑に佐藤春夫が  "かれは 人を喜ばせるのが 何よりも 好きであった! "と碑文にこめたのは、無防備に言えば太宰治の煙草とか手品師に通底するマジックの高みであったのではないだろうか.。

井伏鱒二もその著書「太宰治(昭和64年)」の中で、例の三つ峠での放屁の一件について

  「私は太宰君と一緒に三つ峠に登ったが放屁をした覚えはない。・・・抗議を申し込むと、「いや放屁なさいました」と噴き出して・・・故意に敬語をつかうことによって真実味を持たそうとした。ここに彼の描写力の一端が窺われ、人を退屈させないように気をつかふ彼の社交性も出てゐるが、私は・・・このトリックには掛らない。」

太宰治のトリックを端から見破っているのが面白い。ここでまた無防備に言えば太宰治がどこかで "井伏鱒二は悪い人です" と発言したという大騒ぎは、手品師が肝心のトリックをすべて見破られている客を前にしての持っていき場のない照れ隠しだったのではないだろうか。井伏鱒二は私生活の中では "太宰くん" とは呼ばず、決まって "津島くん"と中学生のような甲高い声で呼んだ(「回想の太宰治」津島美和子 昭和53年)というではないか。

 

 

 煙草のマジックは、井伏鱒二三つ峠のパノラマ台で突然の濃い霧にまかれながら岩に坐って、ゆっくりと煙草を吸いながら「放屁をなされた」から良いので、これが煙草を吸わないでただ岩に坐って轟然と「放屁なされた」のでは取り囲んでいた霧ですら吃驚したに違いない。座敷に寝転んで "金剛石も磨かずば" と歌いながら、際限もなくせんべいを齧っていたというのでは、太宰治の「思いをあらためる覚悟」も甲府の娘さんとのことも余りにもあけすけで、やはりバットの絶え間ない紫煙にくるまれてこそ、太宰治のいや津島修治のひとときの平穏が、雲間の富士のように読者に見えてくるのではないだろうか。