煙草天国

煙草についていろいろな本を読みます

『たばこ』  佐藤愛子  手巻きタバコ

 佐藤愛子はたばこを吸わない。

もし喫煙に家系というものがあるとすれば、父の佐藤六治(筆名 紅緑)は「敷島」を一日に百本はふかしていたというし、母親のシナ(芸名 三笠万里子)は一日中茶の間の長火鉢の前に座りっぱなしで吸っていた。異母兄のサトウハチローは「フジ」を日に百二十本が定量だったし、進取の精神に富んでいた姉の早苗も悪戯半分にたばこを吸っていたというのだから、当然佐藤愛子の血の中にもたばこの正統が立派にながれているはずである。

 その佐藤愛子がたばこを吸わないのは、健康を損なう惧れがあるとか、他人さまに厄介な煙がご迷惑をおかけするとかといつた "いちいちうるせえ" 今時のお行儀のよい理由なぞではない。

「私がたばこを吸わないわけはいろいろあるが、不精であるということもそのひとつかもしれない。」と書いて、しかし

 「ものを書く仕事をするようになってから、タバコが吸えればよいのにと頻りに思う」

「もし私がタバコを吸える人間であったなら、もう少しゆとりのある仕事ぶりが出来るのにと私は思う。」

と、たばこへの少しばかりのオマージュをもらしてさえいるのである。

 

 「手巻きタバコ」は近頃では、アール・ワイ・オー(Roll Your Own)なんて洒落た呼び名でその愛好家は多く、れっきとしたたばこ専門店には数多くのシャグ(手巻き専用の刻みタバコ)がパステルカラーのパウチに包まれてお花畑のように並んでいる。勿論専属のペーパーもフィルターもあるし、それらをセットして誰でも綺麗に手巻きすることが出来る(映画でランドルフ・スコットが馬上で片手で見事に手巻きするシーンは忘れられない)ローラーも各種用意されている。ここにはたばこが、ただ吸えばそれでおしまいという領域から "お洒落" とか "格好良い" とかといった、近頃のファッションの領域への風向きが、軽やかに甘ったるく感じられる。

 

 明治生まれの埴谷雄幸(1909〜1997)は中学二年の頃からたばこを吸いはじめたそうだが

 「四年になった頃・・・ダルハムの粉タバコを持ってきて、褐色のホィート・ペーパーに自分で巻き込んで吸うものが現れた。これはひどく洒落たことにおもわれた。」

 ここでいう「ダルハム」とは「ブル ダーラム( Bull Durham)」のことで

 「私はいまでも思い出すが、木綿の袋につめられて、その木綿の上にダルハムの商標がプリントしてあるさまは、貨物船に乗せられて遠くへ積み出される小麦粉の袋を連想させた。」

 「明治維新からすでに五十年以上たっていたのだが、私が成長したその頃、つまり袂のなかからダルハムを出したり、巧く巻けないと、エアシップの箱をもう一つ出して・・・」

 こうしてみると欧米文化と共に流入してきた「手巻きタバコ」は、明治維新から五十年以上たった大正の頃でも、平成最後の今年でも "お洒落な" という言葉で括られる、まことに愛すべき存在であるということができようか。

 

 しかし、昭和に入ってのわが国での「手巻きタバコ」はそうは軽々しくない。

 「そのうちに戦争がはじまつた。タバコは自由に買えなくなり、配給制度になった。やがて巻きタバコの配給はなくなり、タバコの葉とそれを巻く紙が配給されるようになった。」

 たばこが配給制になったのは昭和十九年十一月一日からで、当初は五日分として「光(十本入り)」ひと箱に「朝日(二十本入り)」ひと箱の計三十本、一日当たり六本の割り当てで皆悲鳴をあげたが、それも翌二十年八月一日からは一日当たり三本になったと残酷な記録がある。それは戦時下での、極度に逼迫した原料、資材の確保、混乱を極めた流通、製造設備の焼失、人手不足などなどから「紙巻きたばこ」の満足な供給は到底不可能になったためであった。かかる事態にたいして、専売局が比較的被害の少なかった裁刻作業の余力を利用して"きざみ" を増産し、これを「のぞみ」として「紙」添付して売り出したのが昭和十九年九月。まさしく窮余の策であり、これが "お洒落" もへったくれもない我が国の「手巻きタバコ」の誕生であった。しかもその当初は、巻き上げる道具もなく手近にあった箸や筆を使うといつた悪戦苦闘が強いられた。

 「暗幕を垂らした暗い部屋で白髪が急に増えた母が黙々とタバコを巻いている。」

 戦時下空襲に備え戸外に灯りが洩れぬよう部屋の電灯にみな黒い暗幕を垂らしていた。昭和十九年十月二十四日には敵B-29による帝都初空襲があった。

 「アルミニウムのタバコを巻くものが売り出されたが母はそれを買って来て丹念に巻く、巻くしりから父が吸う。母は怒っていった。「そんなに、自分ばかり吸わないで下さい !」父と母はタバコのことで喧嘩ばかりしていた。父は母の分を吸ってしまうのだ。」

 それはそうだろう。なにしろ佐藤紅緑は日に百本吸うのだから凡そ十分間に一本は吸わなくてはならない。三笠万里子が黙々と巻き上げる一本を今や遅しと・・・喧嘩になっても仕方がない。

 

 戦後になって、色川武大(1929〜1989)は

 「・・・母親と私とで、道ばたに三尺の台をしつらえて、野菜だの果物だのを田舎へ行って背負ってきては売る。それでも毎日買い出しに出かけるのは辛いので・・・煙草の手巻き器具を並べて売るようになった。」と。

 かの吉田健一(1912〜1977)は、" かつぎや" からより労力とコストのかからぬ " もく拾い"  に転じて、拾ってきた吸い殻を揉み解し、闇市で売っていた手巻き器具でそれらをまき直し、大手町のガード下で十本二十円で売れていたと書いていて、巻く紙はやはり三省堂の英和辞典のものが上等で、白水社の仏和辞典のそれはちょっとおちたと、いかにも学者らしい評価も書き添えている。そして、" もく拾い" をやめて更に労力とコストのかからぬ" 乞食" に転じたのが昭和二十四年三月とのことで、なんの符号か氏が「手巻きたばこ」の製造を止めたこの年の九月には、専売局も手巻きタバコ「のぞみ」の製造を中止している。そして更に何の意味もないけれど、氏が拾ってきた吸い殻を慣れぬ手つきでせっせと「手巻きタバコ」に変身させていただろう昭和二十三年は、実に明治維新から八十年目にあたる年なのである。

 

 佐藤愛子は今年(平成三十年) 九十二歳。

 手巻きタバコをめぐって父と母が揉めているのを見ていたのは終戦前後のことだろう。不精を自認しているぐらいだから、母親を手伝って" のぞみ" を小器用に巻き上げるようなことはしなかったに違いない。しかし

 「たばこというものはないとなるとますます吸いたくなるものらしい」

といった観察は怠らないし、

 「酒は一定量飲むと眠るか、騒ぐか、とにかく最後は酔いつぶれて静かになる。甘党もおはぎを二十も食べさせれば、ひっくり返って静かになる。しかしタバコのみだけはそうは行かぬところが困るのである。」

といった愚痴も書き漏らしてはいない。

 

 テレビやスマホに依存しなければ何も語れなくなったかのような近頃の世相を、" いちいちうるせえ" とばかりに切り刻んで巻紙にくるみ、まるで手巻きタバコのようにホイホイと並べてみせる。とても尋常な無精者とは思えない。

 例によって何の意味もないけれど、今年は明治維新から百五十年目にあたる。

 

 

   『タバコ』        佐藤愛子   「けむりの居場所」

   『煙草のこと』      埴谷雄幸   「たばこの本棚」

   『私だけの煙草の歴史』  色川武大   「けむりの居場所」

   『乞食時代』       吉田健一   「もうすぐ絶滅するという煙草につ

                        いて」

                                  所収